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2016.06.26 (Sun)

コンプエースにて連載中の漫画「ストライクウィッチーズ エーリカ・ハルトマン1941」にて登場する新ウィッチ2人の正体と名前が判明!


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ハリエット・スティーア


◎元ネタ
ハリー・スティア
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1914年2月7日生まれ。
1930年9月にイギリス空軍に入隊し、1933年8月18日に航空整備士として配属。
その後、1936年8月22日に軍曹となったスティアはパイロットとしての訓練も行うようになった。

パイロットとしての訓練を積んだ整備士は、その職に戻るまでの3年間はパイロットとして飛行することとされていたが、曹長に昇進した1939年には、欧州各国が第二次世界大戦が始まろうとしている段階であり、結果的に整備士に戻ることはなく、大戦開始時にはダックスフォードの第19飛行隊に配属された。
バトル・オブ・ブリテンに参加し、空軍殊勲章を授与された彼は、1941年から飛行学校で教官を務めていたが、1943年11月12日に爆撃機モスキートばかりで編成されている第627中隊に配属。

1944年6月9日、大尉になっていたスティアは、ノルマンディー上陸作戦で上陸した連合軍に反抗するドイツ軍の増援を防ぐために、フランスのレンヌ付近の線路を爆撃する作戦に参加したが、撃墜され、死亡。





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ヴィクトリア・ウルバノウィッチュ少佐


◎元ネタ
ヴィトルト・ウルバノヴィチ
Witold Urbanowicz DFC

ヴィトルト・ウルバノヴィチはポーランド人エース・パイロットのなかで二番目に位置する、第二次世界大戦のポーランド人エース・パイロットである。

ポーランド東北部アウグストゥフ近くの村オルシャンカで生まれた。1930年にはデンブリンのポーランド空軍士官候補生学校に入校し、高等飛行訓練を志願して、1933年に卒業した。1930年代には第113および第111戦闘機中隊に勤務した。
1936年8月にはPZL P.11a戦闘機で出撃して、ポーランドの空域に侵入したソ連のR-5偵察機を撃墜しているが、この撃墜は越権行為だったため、懲罰措置として、彼はデンブリンで教官として転属させられた。そこで彼は「コブラ(Kobra)」というあだ名を付けられた。

1939年のナチス・ドイツによるポーランド侵攻のときは間に合わせに教官だけで編成されたウレズ(Ulez)・グループという飛行隊に所属した。隊員は旧式のPZL P.7a戦闘機で作戦参加したが、ドイツの爆撃機よりも足の遅い戦闘機では1機もを撃墜することはできなかった。

ウルバノヴィチは、自分の生徒全員を引き連れて当時中立国だったルーマニアへ脱出することを命ぜられた。
ルーマニアでイギリスとフランスから送られてくるはずの飛行機を待つことになっていたが、それは単なる誤報だった。ウルバノヴィチ自身はポーランドに戻り、戦争に参加し続けた。しかしソ連がポーランド侵攻した後、彼はソ連軍の非正規部隊に捕らえられてしまったが、捕らえられたその日のうちに彼は自分の生徒2人と共に脱走に成功し、再びルーマニア国境を越えて最終的にフランスのマルセイユに辿り着いた。フランスでは新しいポーランド軍が編成されつつあった。

フランスでウルバノヴィチは他のポーランド人パイロットと共にイギリス空軍への参加を勧められた。そこでイギリスへ渡って訓練を受け、イギリス空軍第601戦闘機中隊へ、すぐに第145戦闘機中隊へ配属されて1940年8月4日よりバトル・オブ・ブリテンに参加した。初の敵機撃墜記録は8月8日、ドイツ軍メッサーシュミットBf109戦闘機だった。8月12日にはユンカースJu 88急降下爆撃機を撃墜した。
その後、A 戦闘機小隊長としてホーカー ハリケーン戦闘機を擁する第303戦闘機中隊に転属し、重い火傷を負ったズジスワフ・クラスノデンブスキ前戦闘機中隊長に代わって部隊の指揮を任されることとなった。戦闘機中隊長としての彼は撃墜記録を次々と更新した。
戦闘機乗りとしての腕は超一流だったが、その是々非々でものを言う彼の性格からウルバノヴィチはポーランド軍司令部と確執を起こしていたため、ズジスワフ・ヘンネンベルクに戦闘機中隊長の役職を引き継がなければならなかった。結局バトル・オブ・ブリテンにおいては15機撃墜が公認され、不確実ながらその他1機を撃墜した。これはポーランド人エース・パイロットとしてはトップであり、バトル・オブ・ブリテンの連合軍では十指に入る成績である。

1941年の4月15日から6月1日までの間ノーソルト航空団(1st polish Fighter Wing,第1ポーランド航空団)を指揮したあと、ウルバノヴィチは実戦勤務から離れて事務方となった。
1941年6月、彼はアメリカに渡った。アメリカではイギリスにおけるポーランド空軍の宣伝旅行をし、ヨーロッパにおける戦闘機戦術について各地で講演し、その後ポーランド大使館付空軍武官補佐官(2nd Air Attache)に任ぜられたが、外交官としての仕事は彼の性格に合わなかったようである。

1943年にウルバノヴィチはアメリカ陸軍航空軍(USAAF)のクレア・シェンノート将軍に紹介され、そこで中国での戦いに参加したいと申し入れた。そこで10月23日にアメリカ人義勇兵グループであるフライング・タイガースに加わることができた。ウルバノヴィチの報告書によると彼は中国で数機の敵軍機を撃墜し、さらに地上にあった数機を破壊したことになっているが、公認記録は残っていない。
ポーランドはドイツと交戦していたため日本に対しても戦争状態にあったが、ヴィトルト・ウルバノヴィチは日本軍と実際に戦った唯一のポーランド人であった。

中国で2ヵ月を過ごしたあと、1943年12月に彼はイギリスに渡り、再びワシントンに戻って大使館付空軍武官として働いた。多くのポーランド人の戦友とは異なり、終戦となっても軍の任務を解かれず、代わりに1945年7月をもって永久休暇の扱いとなった。
共産主義者たちの政権はポーランド国家の「正常化」を宣伝するために戦中の英雄たちを懸命に呼び戻していたため、1946年、彼はポーランドに帰ったが、スパイの嫌疑を掛けられて逮捕されてしまった。これは何らかの誤認逮捕だったらしく、留置所で1日を過ごしたあと何事もなく釈放されたが、その経験で彼は共産主義のポーランドにすっかり嫌気がさし、アメリカに戻ってしまった。彼はニューヨークに暮らし、航空会社のアメリカン航空とイースタン航空、そして航空機メーカーのリパブリックで仕事をして、1973年に引退した。1996年8月17日、ヴィトルト・ウルバノヴィチはにニューヨークで静かにこの世を去った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィトルト・ウルバノヴィチ




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Comment


  1. 名無しな日常:2016/06/26(日) 19:25:00 ID:79D/WHSg



  2. 名無しな日常:2016/06/26(日) 19:59:00 ID:79D/WHSg
  3. やりますねえ!(賞賛)




  4. 名無しな日常:2016/06/27(月) 15:16:00 ID:79D/WHSg
  5. さすが。仕事速い




  6. 名無しな日常:2016/11/09(水) 21:20:00 ID:79D/WHSg
  7. ポーランドだからもれなく… 色々大変だっただろうけど静かな最期で安心




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